2014年6月29日日曜日

ローマ法王に米を食べさせた男

たった一人のチャレンジで、世の中は変えられる、そう確信させてくれた事例があります。先日、その人物に会って来ました。

石川県羽咋(はくい)市の地方公務員である高野誠鮮氏は、神子原(みこはら)村という廃村寸前の限界集落を立て直しました。過疎化が進み、65歳以上の高齢者が構成人口の50%以上を占め、そのまま放置しておくと消滅してしまう可能性の高い集落を限界集落といいます。神子原村も、そんな限界集落の一つでした。高野氏は、この限界集落の立て直しを市長から命じられました。ただし、与えられた年間予算はたったの60万円。普通なら、こんな額では何もできないと考えるでしょう。

しかし、高野氏は市長からの指示に従うことにしました。ただし、「いっさいの稟議を廃し、自分だけの判断、決断で村の立てなおしを進めさせてほしい」という条件を付けました。行政の世界は何事も稟議で決められます。その意味では非常識な要求でしたが、市長はその条件を受け入れ、高野氏の挑戦は始まりました。高野氏はまず村の若返りを図るために、空き家になっている農家を若手の移住希望者に安く貸し出すことで、村への移住者を募集しました。こうした施策はとりたてて目新しいことではありませんが、通常は移住者に補助金を出したりしてお願いして来てもらうことが多いそうです。ところが、高野氏のアイデアがユニークだったのは、「この村に来たければ、どうぞ来てください。ただし、あなたがほんとうにこの村にふさわしい人かどうか、村民で面接試験を行います。合格した方のみ移住を受け入れます」と、あえて「応募者を選別する」という強気のスタイルをとったことでした。予算もない高野氏としては苦肉の策だったのかもしれませんが、おもしろいもので、応募者が殺到して定着率も100%となったそうです。結果的に、人間心理をうまく衝いたのでしょう。

しかし、高野氏のほんとうのすごさは、村を救うために、いきなり「世界」をめざしたことです。神子原村は稲作を中心とする農村ですが、一世帯当たりの年間平均所得はわずか80数万円の極貧の村でした。きれいな水と稲作に適した気候に恵まれた神子原村のコシヒカリは高品質なものですが、収穫した米はそのまますべてJAに買い取ってもらっていました。そこで高野氏は、「自分たちで米のブランディングを行い、値段を上げて直販しよう」と提案します。しかし、村民たちは猛反対。「そんなことができるものなら、自分でやってみろ」と言われます。

ここで高野さんが思いついたのは、神子原米をローマ法王に献上する、というなんともユニークなアイデアでした。ローマ法王宛てに「神の子が住む高原でつくられたおいしいお米を、法王に献上したい」と手紙を書いたのです。「神子原村」という地名にちなんでの発想でした。しばらくはなしのつぶての状態が続き、さすがにあきらめかけていたとき、バチカン大使館から連絡が入りました。「人口800人のバチカン市国と、人口500人の神子原村とのあいだで親善の絆を結びましょう」

こうして神子原米はローマ法王に献上されることになりました。その様子はマスメディアによって大きく報道され、神子原米は「あのローマ法王が食したお米」ということで一躍有名になりました。いまでは新米が市場に出ると、あっという間に売り切れて手に入らない幻のお米と言われています。ほかにも、「ワインのような日本酒」を開発し、パリの三つ星レストランであるアラン・デュカスで扱ってもらったり、神子原米の品質管理に人工衛星を使うプロジェクトを進めたりと、その挑戦はまさに縦横無尽に拡がっています。村人で共同して法人を設立し、村の農産物を直売する、ということも行っています。結果的に、村は限界集落から立ち直り、すっかり活気を取り戻しています。

この高野氏のチャレンジとその成功からは学ぶことが多いと思います。特に、他の人にとってはごく普通の米をブランド米に仕立てあげた着眼点、そしてその手法がローマ法王に献上する、という世界的なブランディングセンスだったこと、など。そして、何より感銘を受けたのは、高野氏の献身的な姿勢です。私利私欲がいっさいなく、「役人」というのは「人の役に立つ人」のことを言うのだ、と無心で村の再建に身を挺しておられます。

高野さんはその後、本を書かれたり、メディアに登場されたりで、すっかり有名人になられましたが、口先だけの地域振興の話などが多い中、たった一人の発想力と行動力で世の中は変えられる、という事例を見せつけてくれた貴重な日本人だと思います。


2014年6月17日火曜日

「ロボット・AI革命」

前回のエントリーで2045年問題を取り上げたが、先日の週刊ダイヤモンド(6月14日号)で、「ロボット・AI革命」という特集が組まれていて、その中でもレイ・カーツワイルや技術的特異点問題が取り上げられているので、今やこの話題も大衆化しつつあるのかもしれない。

それにしても、ロボットが人間の職を奪う、とか、意識や感情を持つロボットの苦悩や人間との確執とか、ロボットによるストライキなどというテーマについては、どれも昔懐かしく思えるのだが、それは、そのような時代の到来や日常を何十年も前に日本が生んだ天才漫画家の手塚治虫氏が「鉄腕アトム」のなかで既に存分に描き切っていたからだ。私は幼少時にその「鉄腕アトム」に没頭した世代だが、グーグルのロボットカーのプロトタイプの映像などを見ていると、本当にそのような時代が遠からずやってくることを確信させられる。

これまでの十年よりも今後の十年で、さらに激しく世の中は変わるだろう。オックスフォード大学からは、今後二十年で現在の雇用の50パーセントがなくなってしまう、といった予測レポートも出ている。実際、上記の予測が現実となれば、労働集約型の仕事のみならず、知識集約型の仕事の多くも、コンピュータやロボットに置き換えられていくことになるだろう。その結果、大失業時代の到来を予測する声もある。

企業のライフサイクルも短くなるばかりだ。勤めている会社が突如として倒産したり、いきなり解雇されたり、そんな悲劇がいつ待ち構えているかもしれない時代だ。倒産や解雇はなくても、これまでのようにコンスタントな昇給が期待できる会社は激減した。最初に入社した会社で定年まで勤め上げるというスタイルは、今後さらに減っていき、多くの人たちが転職をくりかえすようにもなるだろう。

地球環境も激変しつつある中、今、人類は、これまでの人類史の中でも最も大きな変曲点に向き合っているのは間違いないと感じる。これまでの行き過ぎた物質主義や経済至上主義の見直しも必要だろう。明るい未来をつくれるかどうかは今の我々の意識や行動にかかっている、ということを強く認識せずにはおれない。

2014年6月1日日曜日

2045年問題

技術的特異点(テクノロジカル・シンギュラリティ)という言葉を聞いたことがあるだろうか?

これまで人類が築き上げてきた技術史の延長線上では予測できなくなる未来モデルの限界点のことを指す。米国の科学者、レイ・カーツワイルを始めとする科学者の一部が、「特異点の後では科学技術の進歩を支配するのは人類ではなく人工知能やポスト・ヒューマンであり、これまでの人類の傾向に基づいた未来予測は通用しなくなる」と主張しており、レイ・カーツワイルは「機械の知能が人類の知能を超える日」が到来するタイミングを2045年としている。一部のSFマニアやギーク達が支持するオカルト科学扱いされた主張でもあるが、2012年にグーグルがレイ・カーツワイルを獲得したことから、にわかに真実味を帯びた話題として扱われるようになり始めた。

この予測の詳細は割愛するが、街を歩いても、電車に乗っても、老いも若きもほとんどの人が必死にスマホを操作している光景は見慣れたものとはいえ、一種異様な光景でもある。異様に思うのは、いわばスマホを手放せない人達というのは、手のひらの小さなデバイスに支配されているように感じるからでもあろう。歩きながらも首をうなだれて携帯に見入り、突進してくる人を危うくよけたというような経験は誰にでもあるだろう。

今の段階ではまだ人体とは別体の外部デバイスに過ぎないが、次の段階はこれが身に纏うもの、すなわち、ウェアラブル・デバイスへと置き換わって行く。腕時計タイプのものやグーグル・グラスのようなものだ。ここまではまだ人体の外側だが、さらに次の段階は、いよいよ、チップやセンサーなどが人体の内側に組み込まれる時代が来ると予想される。人間の神経細胞レベルのナノコンピュータデバイスを作って人体に埋め込み、人間の頭脳中枢をコンピュータに直結させて「意識」をコントロールしたり、脳細胞に存在する情報を取り出すようなことも可能になるだろう。

米国のSF映画、「ターミネーター」ではサイバーダイン社が生み出したスカイネットというコンピューターネットワークが人類の殲滅を図ろうとする中での、コンピューターや殺人ロボットと人間の闘いを描いたものであった。また「マトリックス」では、人体にプラグインするシーンが生々しかったが、コンピュータの反乱によって人間社会が崩壊し、人間はコンピュータの動力源として培養されているという設定で、人間の意識と仮想現実が入り乱れた中でのやはりコンピュータと人間の闘いがテーマとなっていた。これらのハリウッド映画は、まさに技術的特異点の先の未来を描こうとしたフィクションである。しかし、AI(人工知能)ベンチャーのDeepMindやロボットベンチャー数社のの買収に励むグーグルの姿は映画の中に登場するハイテク企業とダブらないこともない。

技術的特異点の話については、それを肯定する人もいれば一笑に付す人もいる。また、そのような未来が来ることには肯定的でも、それを積極的に受け入れようとする立場と、人類にとって危険過ぎると否定する立場もあるだろう。

人間の精神や魂が人類の叡智を凌駕した機械にコントロールされるような未来を生み出さない為にも、そして、人類が人類であり続けるためにも、今後は宗教や哲学や芸術などが科学技術の飛躍的な進化とバランスを保つための実学としての役割をもっと積極的に担っていかねばならないように感じている。このテーマについては今後も追い続けて行きたい。